皆さん、こんにちは!
いつも東京ラスクオンラインショップをご利用いただき、誠にありがとうございます。
東京ラスク社員であり大の映画好きな私 Haruが、「おやつのお供に観たい映画」をご紹介していくこのブログ。
映画について語りつつ、ラスクに合う楽しみ方もちょっと添えて。
ぜひ、ラスクとお気に入り映画で心ほどける時間をお過ごしください。
第40回では、父のトランスジェンダー告白に揺れる少女と家族の再生を、静かな眼差しで映す繊細で温かなデンマーク映画を紹介します。
監督であるマルー・ライマンが、自身が11歳のときに父親が女性になった実体験を基に脚本を書き、初監督を務めました。
○パーフェクト・ノーマル・ファミリー(2020年製作)
スタッフ・キャスト
監督:マルー・ライマン
トマス/アウネーテ役:ミケル・ボー・フルスゴー
エマ役:カヤ・トフト・ローホルト
~あらすじ~
デンマークの郊外で暮らすエマは、地元のサッカークラブで活躍する 11 歳の女の子。幸せな家庭で充実した日々を送っていた。ところがある日突然、両親から離婚すると告げられたことで彼女の日常が一変する。しかも離婚の理由は「パパが女性として生きていきたいから」だった……。ホルモン治療によって日に日に女性らしくなるパパのトマスが、やがて性別適合手術を受けるという現実をエマは受け入れられず、ひとり思い悩んで寂しさを募らせ、時にはやるせない苛立ちを爆発させる。「大嫌い。パパなんか死んじゃえ!」。そう叫びながらも、本当はパパのことが大好きなエマが、幾多の葛藤の果てに気づいた自分の気持ちとは……。
引用:MOVIE WALKER PRESS(https://press.moviewalker.jp/mv74757/)
◆見どころポイント◆
①揺れ続けるエマの感情の“非一貫性”が痛いほどリアル
本作の最大の魅力は、父に対する娘エマの反応が“一貫していない”ことを誤魔化さずに映している点です。
父がアウネーテとして生きると告げた瞬間、エマは「父親じゃなくなってしまう」ような喪失の不安に直撃され、傷つき、周囲に強く当たってしまう。ところが次の瞬間には、アウネーテや姉のカロと何事もなかったかのように笑い合い、遊び、ふと肩を寄せ合える。
受け入れと拒絶、怒りと甘え、羞恥と好奇心が、波のように寄せては返す。まさに「1日経ったら忘れる」ような、思春期特有のどっちつかずな心の運動が、そのまま呼吸のリズムとして画面に定着していきます。
ここで重要なのは、映画が彼女の揺らぎを“未熟さ”として矯正しないこと。既視感のある家族ドラマの設定を踏まえつつも、“正しい反応”を教え込まず、揺れること自体を肯定するから、エマが抱える痛みも、ふと見せる笑顔も、どちらも等しく愛おしく見えてくるのです。
アウネーテの慎重な距離感や、カロの飄々とした寄り添い方も効いていて、親子・姉妹の関係が「ずっと仲良しなわけでもずっと軋轢があるわけでもない」という、リアルな生活の手触りを立ち上がらせています。
作り手の視線は徹底して温かく、しかし決して甘くはない。その両立が、観客の心に静かな余韻を残します。
②綺麗事でまとめない“距離”の描写が、温かさを本物にする
本作は、関係の修復や“理解”を直線的な成長譚として描かないところが特長です。
特に元妻のヘレのスタンスが象徴的で、彼女はアウネーテに対して一定の距離を保ちます。怒りや悲嘆を激しく爆発させるのではなく、生活者としての現実的な線引きを選ぶのです。これが「いい話」に終結しないリアリティを与えています。
同時に、その距離は冷淡さではなく、かつて確かに共有していた時間への敬意や、子どもたちを守る責任感に裏打ちされているように見えます。
つまり、誰かの“正しさ”が他者の“痛み”を生まないよう、各人が無理のない半径を探る物語なのです。だからこそ、画面には切なさと愛おしさが同居しているのです。
食卓を囲む小さな会話や、送迎の沈黙、ふいにこぼれる冗談といった断片が、派手な演出に頼らず関係の温度を伝えてきます。
俳優陣の抑制された演技も見事で、アウネーテの柔らかい所作や視線の揺れは、トランスジェンダーを説明で語らずに“在り方”として存在させます。
既視感のある設定でも、選択の代償と優しさの両方を抱えた大人たちを、綺麗事でまとめない。それが、最終的に“爽やかなホームドラマ”として立ち上がる下地になっています。
結論を押し付けず、観客に余白を残しているからこそ、見終えたあとに自分の家族や自分の距離感をそっと見直したくなるのです。
③ホームビデオが“記憶”を更新するー最後に深まる意味
ホームビデオのシーン、使い方が個人的には最大の魅力であると思っています。何気なく差し込まれるホームビデオの断片は、本作の語りの心臓部です。
最初は、ホームビデオの映像がただ“昔の幸せな風景”として過去を彩る挿話に見えます。ところが物語が進むほど、ホームビデオは記憶のアルバムではなく、家族が「今」を生きるための羅針盤として機能しはじめます。
生身の視点で揺れるエマの体験と、固定カメラの長回しが捉えた過去の姿ーこの二つを行き来することで、観客は“変わったもの”と“変わらないもの”の両方を同時に見つめることになるのです。
そして、最後の最後にもう一度ホームビデオが差し込まれることで、その画が保持していた意味が一気に更新される。
語られない言葉が増幅され、「普通」とは何かという問いが、押し付けではなく感触として手に残る。
エマたちは確かに“普通じゃない”経験をしたーしかし、幸せな時間はこれからも刻まれていくと確信させる力が、あのビデオにはあります。
ホームビデオのざらついた質感や少し滲む色、音の距離感が、懐かしさに寄りかからず現在へ繋がる。
ホームビデオを回想の装飾ではなく、物語の駆動力として組み込む設計が見事で、スクリーンを離れたあとも、観る者それぞれの家族の記憶へ静かに接続してくるのです。
まとめ
『パーフェクト・ノーマル・ファミリー』は、父のカミングアウトという既視感ある入口から始まりながら、エマの揺れ続ける心をそのまま生かし、綺麗事で整えない距離感と、小さな日常の積み重ねで家族の再定義へと辿り着く、繊細で温かなホームドラマです。
ホームビデオが更新する“記憶”の意味合いは、過去を抱きしめながら現在を生きる勇気をそっと手渡してくれるはず。
観終えたあと、あなたは「家族って何だろう」を問い直しながら、それでも家に灯る小さな明かりの温度を愛おしく思うでしょう。
それでは、映画とともに 素敵なラスク時間を







